切田地区の概要
 縄文晩期の遺跡のある「元夏間木小学校学区」

 十和田市の南西に位置する本校の学区は,奥入瀬川の支流,切田川と三ツ又川の段球上に約19の大小集落から成り立っている。最も古い遺跡として縄文晩期のものを残す見世集落,夏間木集落を中心に中屋敷を含め「元夏間木小学校学区」を形成している。

 弥生式土器で有名な,姫居遺跡のある「上切田小学校学区」

 また,弥生式土器の出土地として有名な姫居遺跡は半在池集落にあり,久保・寺地・外ノ沢・関口・程野・豊川・上舘・谷地・古安鹿・泥ノ木を含めて「上切田」と呼ばれ「上切田小学校学区」を形成している。
 上舘には室町時代後半の館の跡が残っている。寺地には戦国時代の出城の形跡が残っており,中世末にこの地方を治めた気田弾生の本拠地として,古い水田のある沢や池が点在し,その地名を半在池・外ノ沢・滝沢・関口・豊川・谷地に残している。

 室町時代には「切田」の地名由来の気田氏が住み始めた「下切田小学校学区」

 一方,下切田を中心集落として橋場・横道を加え,向切田を含めて「下切田小学校学区」を形成している。向切田は,奥入瀬川対岸の地で,江戸時代後半に開拓された集落で,切田地区の分家筋や藤島・相坂方面からの入植者の氏姓が見られる。
 室町時代になって,気田氏がこの地に住むようになってから,ケタムラと呼ぶようになったと言われる。それが後にケタがキタとかケッタと発音されるようになり,やがて「切田」の字をあて,ついに「気田」をキリタと読むようになったと言われている。

 江戸時代以降の切田地区「切田中学校学区」

 戦国時代末期には,この地方は南部氏に完全に掌握され,その家臣団がこの地域に知行地を与えられ,様相は一変してしまう。江戸時代には,この「切田中学校学区」(旧切田村)は,南部氏家臣,切田氏・牧田氏・塩川氏の三氏の知行地として分割統治されることになった。中でも,下切田は八幡宮・正法寺及び気田氏の御給人(半農・半士)が若干住み着き,集落も大きくなっていった。

 かつての共有地は,後に「財産区」となり,合議の上で学校建築材料を出したり,向学心に燃える若者に奨学金を出したりして多くの優秀な人材を育成し,世に送り出してきた。地域住民の教育に対する関心は高く,高学歴志向は親子共通の願いであり,父母や地域の学校に対する期待も大きい。




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