●戦国時代の戸来村
三戸南部氏の支配下に入り、長亨年代(1487年〜1489年)南部光政のころ、藤原鎌足の子孫の木村又六郎政秀が戸来(へらい)郷を領地として戸来家を名乗ったのが起こりとされます。
明治初年発行の「新撰陸奥(むつ)国誌」によれば、戸数は303余りで馬の放牧飼育が盛んで、年に良馬140頭を産するほどの名馬の産地でした。
●明治の戸来村
明治初年発行の「新撰陸奥(むつ)国誌」によれば、戸数は303あまりで馬の放牧飼育が盛んで、年に良馬140頭を産するほどの名馬の産地でした。
●明治以降の戸来村
明治以降は、度重なる大凶作の経験から、肉牛の飼育が盛んになり、昭和10年には戸来村酪農農事実行組合が設立され乳牛を導入し、一時は青森県内有数の酪農村でした。
また、当村はリンゴの産地としても、木炭の産地としても(大正から昭和初期にかけて)名を馳せていました。
●戦国時代の西越村
西越(さいこし)村も戸来村と同様、戦国時代から三戸南部の支配下に入り、居城ともいえる西越館には22代南部政康の四男の石亀紀伊守信房の次男(石亀義実と推定される)にあたる西越一族が居館していたと言われています。
西越氏は後の下田村(現下田町)に移り住み下田氏の祖先となったと伝わっていますが、領主説には別説もあります。
●明治時代の西越村
西越村もまた名馬育成で知られ、薄からも重要視されていました。やはり薪炭の生産も盛んで、上掲の「陸奥国誌」によると戸数は178戸で、肥よくな土地柄ではないが、薪材が豊富で温泉も涌いており、湯治客でにぎわったとあります。
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