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歴史

○ 北前船と近世文化

(1)北前船と西廻海運


1.北前船とは

 江戸時代、主な流通として著名なのが、北前船による海運です。北前船は北国や東北、蝦夷地と瀬戸内海や大坂を結んだ廻船をいいます。そのルートは大坂から瀬戸内海を経て日本海を回り、蝦夷地へと向かうものでした。
 北前船以前も日本海ルートの流通は、北国船によって行われていました。北国船がどんな姿をしていたかは、青森県深浦の円覚寺や、新潟県能生の白山神社に奉納された絵馬によって知ることができます。北国船に積まれた「蝦夷地」や「陸奥」の物産は、越前敦賀で陸揚げされ、琵琶湖水運を経て京・大坂へ運ばれました。寛文十二年(1672)、河村瑞賢によって、蝦夷地と大坂を直行する西回り航路が開拓されました。北前船は、北国船に較べて大きく、帆柱の構造も一団と進化して、より遠くへの航海が可能になったのです。
 北前船は、春秋の二回運行され、上り荷は主に米や昆布、ニシンなどの海産物で、下り荷は木綿や古着、塩などが一般的で、途中の寄港地で様々な商品を売買していました。
北前船模型

2.津軽・下北での北前船


  北前船の津軽地方における寄港地は、大間越、深浦、鰺ヶ沢、十三湊、権現崎、竜飛崎、蟹田、青森です。いずれの地も越中・能登などの北陸商人、近江商人との関わりが深く、特に青森は越後・越前・近江などから移住民を募って、港町として建設されています。
  青森が建設される以前は、羽州街道と松前街道が合流する油川が湊として繁栄していました。弘前藩は、青森港では塩タラ、干鰯(ほしか)、煎海鼠(いりこ)、干鮑などの海産物を、鰺ヶ沢では蔵米を、また蟹田港ではヒバ材を積み出していました。
  一方で、下北での寄港地には、大間、佐井、牛滝、脇野沢、川内、大畑、田名部、野辺地があります。この中で特に大間は蝦夷地に最も近い港で、能登や若狭、佐渡などの北陸、淡路出身の回船問屋も多く存在しました。
  佐井では、江戸初期から大坂へヒバ材が運ばれるようになり、また、飛騨で木材が入手不可能となった加賀藩が下北に着目するようになりました。しかし宝暦十年(1760)に盛岡藩が下北半島の檜山を直営にしたことにより、山仕事を失った人たちが松前へ移住するようになりました。他に佐井には山丹(黒竜江流域)からサハリン、アイヌを介して松前から本州にもたらされた交易品である、蝦夷錦でも有名です。
  他に大畑はヒバの大集積地にして東蝦夷地航路の分岐点、田名部は下北半島一帯の煎海鼠や干鮑の集積地、また野辺地は銅の積み出しを行うなど、大きな役割を果たしていました。
北前船寄港地図
北前船寄港地図

1
深浦
10
脇野沢
2
鰺ヶ沢
11
佐井
3
十三湊
12
大間
4
三厩
13
大畑
5
蟹田
14
箱館(函館)
6
青森
15
松前
7
野辺地
16
上ノ国
8
田名部
17
江差
9
川内
18
熊石

3.蝦夷地での北前船


  蝦夷地に目を向けると、松前藩の交易港として、箱館、松前(福山)、江差があげられます。この渡島半島海岸部にはアイヌが住んでおり、松前藩はアイヌと交易をするための「商い場所」を設けました。ここで松前藩の人たちはアイヌから干鮭、ニシン、煎海鼠、干鮑などを入手し、松前の商人に売って生活をしていました。
  松前藩の交易港の中で、箱館は有力産品の昆布以外に北前船にとっての魅力に乏しかったのですが、江戸幕府の直轄によって、東蝦夷地でのアイヌ交易がもたらす産物が、箱館を中継として流通するようになったため、賑わいを見せるようになりました。また「函館六カ場所」と呼ばれている戸井町から森町、八雲町の渡島半島東岸では、ニシン、マコンブの産地としても知られており、特に南茅部町の昆布は天保年間(1830〜1844)には大坂で破格の高値がついたほどでした。
  松前氏の発祥の地として知られる上ノ国は、ニシン漁のおかげで賑わいを見せるようになります。また江差は北前船の終点として、奥地の産物がすべて集荷されていました。しかし、18世紀前半になるとニシンを求めて和人がアイヌの領域まで進出し、松前藩の発端である熊石を超えるようになりました。そして北前船も明治三年(1870)以降、小樽まで北上するようになりました。

 
a)
松前藩の成立〜北前船交易の時代〜(本州・北海道架橋)
 
b)
北前船資料室(北前館)
 
c)
北前船のふるさと(財団法人 岩瀬カナル法人)
 
d)
北前船の時代(釧路歴史散歩)
 
e)
蝦夷地幕領化と箱館港(函館市立博物館)
 
f)
国内市場経済とアイヌ社会(函館市立博物館)

 【文献】
  ・加藤貞仁・鎧啓記『北前船−寄港地と交易の物語−』2002.10 無明舎出版


(2)蝦夷蜂起

  松前藩の統治下にあった蝦夷地では、しばしばアイヌ人と和人との間で交易が行われていました。しかし少なからずそのやり方に不満を持っていたアイヌの人々は、松前藩に対して蜂起をしたのでした。その有名なものには長禄元年(1457)コシャマインの戦い、寛文九(1669)年シャクシャインの戦い、寛政元年(1789)クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起などがあります。

 
a)
コシャマイン・シャクシャインの戦い(アイヌ民族博物館)
 
b)
特集!アイヌ民族(躍)
 
c)
アイヌの歴史−江戸時代−(みやメモ)
 
d)
スキッピーの勉強部屋「アイヌの伝説」(スキッピーの冒険マップ)
 
e)
蝦夷のお城大全(日本の城大全)

  【文献】
  ・盛田稔・長谷川成一編『図説 青森県の歴史』1991.7 河出書房新社


(3)蝦夷地警備


  寛政四年(1792)にロシアから使節のラクスマンが根室へ、文化元年(1804)に同じくロシアから使節のレザノフが長崎へ来航し、通商を求めるようになりました。この動きに対して江戸幕府は交渉を拒絶しました。そしてロシアの南下に対応するため、松前藩はもちろんのこと、弘前・盛岡・秋田・仙台・庄内・会津・富山の各藩が蝦夷地警備のために出兵を命ぜられました。後に幕府は北奥地域の沿岸警備を進め、対策を強化しました。

 
a)
蝦夷のお城大全(日本の城大全)
 
b)
津軽陣屋(美浦村お散歩団)
 
c)
北海道観光入門(北海道観光大全)
 
d)
ねぷたが運行される町 北海道・斜里町
(旅の人)

蝦夷地警備でのスケッチ
蝦夷地警備に派遣された藩士が描いたスケッチ
 
  【文献】
  ・盛田稔・長谷川成一編『図説 青森県の歴史』1991.7 河出書房新社


(4)出稼ぎ地としての蝦夷地

  民衆側の青函交流では、南部・津軽から松前藩領民として、檜山稼ぎをするため移住していった人たちを始め、多くの商人が松前へ渡り、特に「松前稼ぎ」と呼ばれていました。その人たちは独自の生活・習慣を形成しましたが、自分たちが元来生活していた土地の文化を松前に持ち込みました。衣料(アツシ)、食習慣、昔話、ことわざ、方言、祭礼などは南部・津軽地方に共通のものが確認されています。

 
a)
秋田県と北方領土(北方領土問題対策協会)
 
b)
くじら汁(北海道人)
 
c)
北海道道南松前の食(農文協)

  【文献】
  ・盛田稔・長谷川成一編『図説 青森県の歴史』1991.7 河出書房新社



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