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黒石市の文化財



国重要文化財 国指定文化財
国指定文化財 県指定文化財
県重宝法眼寺鐘楼堂
★県重宝法眼寺鐘楼堂★


















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国重要文化財「高橋家」国指定文化財

重要文化財 高橋家住宅
  
国重要文化財「高橋家」
★高橋家住宅通り土間★
 高橋家住宅は、代々理右衛門を名乗る黒石藩御用達の商家で、主に米穀を扱ったことから屋号を「米屋」といいます。米穀のほかに味噌や醤油、塩などの製造や販売などしていました。昭和48年2月23日重要文化財に指定されています。

 建物の規模は、桁行11間半、梁間6間の一部2階切妻造妻入で、屋根は築造当初は長柾葺でしたが、昭和初期に亜鉛引鉄板葺に葺き替えています。住宅の内部は、二間の通り土間と片側二列並びに10部屋が配されています。中町側に面する2部屋は建築当時は一部屋であり、「みせ」として使われていたそうです。そして、この「みせ」には奥行き2間の2階があります。8畳間と4畳大の板間からなる部屋の2部屋だけですが、屋根が低いため「与次郎組」という工法が用いられています。この他にも住宅の構造には、吊り上げ式大戸、吹き抜け天井、出格子窓などがあり、津軽地方の典型的大型商家の造りをしています。

 建築年代は、材木の見積書から宝暦13年(1763)頃と推定されます。築後約240年経ちますが、これまで大火事や地震などの被害にも遭わず現在に至っています。高橋家住宅の見学は無料ですが、所有者が住まいしている個人の住宅ですので、限られた期間、場所だけの公開になります。また、冬期間(12月〜3月)は、公開しておりません。それ以外の期間でも公開できない場合がありますので、ご了承下さい。



名勝 金平成園(かねひらなりえん)【澤成園】(さわなりえん)
  
国重要文化財「金平成園庭園」
★金平成園庭園★
 金平成園は、別名「澤成園」で知られており、「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)」または「武学流」と称されている作庭流派の様式を持つ庭園です。明治15年(1882)に加藤宇兵衛に招かれた高橋亭山(たかばしていざん)が、金平成園の作庭に着手しましたが、亭山は完成を待たずに死去したため小幡亭樹(おばたていじゅ)を中心とした弟子が後を継ぎ、明治35年(1902)に完成しました。

 加藤は、失業対策事業の一環として金平成園の造園に着手しました。庭園の名称は、「万民に金が行きわたり、平和な世の中になるように」ということから「金平成園」と名づけられました。しかし、加藤家の家業でもあった酒造業の初代屋号である「澤屋成之助(さわやなりのすけ)」の名前から「澤成園」とも呼ばれ、こちらの名称が広く使われるようになりました。

 庭園は、主屋の東側に位置しており、奥行きのある池庭を展開しています。最奥部には、小高い築山があり、その斜面には豪快な枯瀧の石組が見られます。主峰を象って据えられた巨石の手前に第1段目の落ち口を設け、円礫を敷き詰めた流れを経て、やや落差の大きな第2段目の石組があります。枯瀧の裾部から主屋の前面まで広大な池が展開されています。現在、池の水は枯れていますが、東側、北側、南側の裾部に石組の導入部があることから、作庭当初は水がありました。水面は土提により4箇所に区分されており、池の随所に岩嶋が配されているほか、最下段の池には円形の中島があり、石橋が架けられています。

 主屋の主座敷の縁側に設けられた沓脱石からは2方向に飛石が打たれており、一方は池の畔に打たれた巨大な礼拝石へと延び、もう一方は景石から成る踞へと延びています。また、築山の南のやや奥まった位置には、岩木山に擬せられた巨大な守護石が据えられ、築山には巨大な月見灯籠が配されます。
植栽は、クロマツ、サワラ、コウヤマキ、マサキ、カエデ、サツキなど豊富です。

 また、庭園の中には、主座敷を中心とした平屋建の建物と、明治末期から大正時代にかけて2階部分が増築された建物があります。2階建ての建物には、4帖半の離れ座敷が渡り廊下で結ばれていますが、この建物は、茶室として使用されていたようです。建物の建築年代は、明治時代後半、金平成園が完成した頃と推定されます。

 幕末から近代にかけて、津軽地方を風靡した大石武学流の独特の作風を良好に伝える優秀な庭園であり、主屋及び庭園を含む敷地の全体が概ね良好に違存する点でも重要であることから、平成18年1月26日史跡名勝天然記念物に指定されました。

 金平成園(澤成園)は、現在のところ未公開です。



重要伝統的建造物群保存地区 黒石市中町伝統的建造物群保存地区
  
国重要文化財「重要伝統的建造物群『こみせ』」
★こみせ通り★
 黒石市中町は、黒石陣屋の北東に位置し、南に前町、北に浜町が続きます。黒石から青森方面へ通ずるこの通りは、「浜街道」として交通の要所であるとともに、商業の中心として栄えました。
 この通りの大きな特徴は
、主屋の前面にひさしを張り出し日常の往来に供される「こみせ」と呼ばれる通路が連なっていることです。明暦2年(1656)、黒石初代領主津軽信英(つがるのぶふさ)が黒石津軽家を創立した際に、陣屋を造り新しい町割を行いました。このとき信英が商人町に「こみせ」を作らせたと言われています。
 「こみせ」は、雨や夏の強い日差し、冬の吹雪から人々を守り、快適な空間を作ってくれます。また、軒を連ねた商人町の繁栄のために、なくてはならないものであり、今日まで大切に守られてきました。
 藩政時代のたたずまいを残し、伝統的な形態を保つ「こみせ」が連続する町並みは、現在では非常に貴重なものです。
 
※黒石市は平成17年1月25日、中町を主体とした約3.1ヘクタールの範囲を黒石市中町伝統的建造物群保存地区に指定。同年7月22日には、文部科学大臣から「伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。



登録有形文化財 九戸家住宅
     九戸家住宅は、文化年間(1804〜18)に建てられた建物です。この場所は、現在の甲大工町のほぼ中央にあたり、江戸時代は、陣屋の中にある侍町でした。そして、この住宅は、黒石津軽家14代津軽承捷(つがるつぐかつ)の生家としても知られています。

  この建物は、木造の平屋建、屋根は茅葺の寄棟造で、外観は漆喰壁です。部屋の配置は、玄関から入り、6帖の広間、12帖の座敷が横に並び、その奥に9帖の茶の間と押入れの付いた8帖の和室があります。押入れは後から設置されたものであり、建築当初は9帖半の和室でした。この和室と12帖の座敷には床の間があり、また、建築当時は、茶の間の奥に台所が配されていましたが、現在は増築されており、建築当時の台所はありません。

  玄関脇に庭の出入用に内門が設置されており、建物の道路側には、外門と板塀が設置されていますが、これは、戦後に建築されたものです。

  建物の造りや部屋の配置から上級武士の住宅である可能性が高く、藩政時代の武家屋敷を代表する建造物であることから、平成18年10月18日に登録有形文化財に指定されました。 



登録記念物 鳴海氏庭園
     鳴海氏庭園は、幕末から明治大正と津軽地方を風靡した大石武学流の作庭を様式を持つ庭園です。明治20年(1887)頃に小幡亭樹(おばたていじゅ)が作庭を開始し、後に代池田亭月(いけだていげつ)が完成したと伝えられています。

  庭園は、T字形をしておりますが、鳴海家住宅の客間と座敷に北面する庭園が中心と思われます。客間と座敷の沓脱石(くつぬぎいし)からV字形に配置された飛石は、一方が池の南岸に据えられた礼拝石(らいはいいし)に向かっており、他方は右側の離れ蹲踞(つくばい)へと延びています。池の北端には大小三石から成る枯滝石組(かれたきいしぐみ)があり、その周辺や後方には深山石(みやまいし)とされる景石(けいせき)や野夜燈(のやとう)と呼ばれる石燈籠が据えられており、また、庭園の主景となるクロマツも植えられています。やや離れた東方には守護石とされる大きな景石が据えられています。

  庭園の北西部には、門があり、こみせに面しています。門から池に西面する隠居部屋の沓脱石まで飛石が配されています。また、池の北西側には明治43年(1910)に建立された三代目鳴海文四郎の銅像が建てられています。

  鳴海氏庭園は、大石武学流の作風を伝える庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代に属する類型の中でも特に意匠または構造面の特徴となる造形を良く残していることから、平成19年7月26日に登録記念物にされました。



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県指定文化財県指定文化財

県重宝 金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵(きんなしじぼたんもんちらしまきええふたちこしらえ)
 
金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵
 黒石神社にある御神刀。黒石第11代藩主津軽承叙(つがるつぐみち)が明治時代になり、帯刀が許されなくなったため藩祖津軽信英(つがるのぶふさ)を祀る黒石神社に奉納しました。

 この御神刀は、柄には鮫の皮が張られており、滑り止めとして金の俵鋲を付け、柄頭には合金を象眼しています。また、鞘全体に金粉を蒔いた透明な漆が塗られた金梨子地の上に黒石藩の家紋である五葉の牡丹紋が施されています。このことから金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵と呼ばれています。美術工芸品として優れていることから昭和49年10月14日に県重宝に指定されています。

 鞘に納められている刀身は、再刃のため県重宝に指定されませんでしたが、正恒(まさつね)の銘があることから鎌倉時代の作品と思われます。財団法人日本美術刀剣保存協会の鑑定では、再刃でなければ国宝級の価値があるとのことです。平成12年3月24日に黒石市有形文化財に指定されています。




県重宝 法眼寺本堂(ほうげんじほんどう)
 法眼寺(ほうげんじ)は、延宝8年(1680)に勢州阿坂(三重県)出身の南宗元頓(なんしゅうげんとん)によって開山された黄檗(おうばく)禅宗の寺です。本山は京都府宇治市にある黄檗山万福寺です。黄檗宗の寺は東北地方では15か寺、県内に至ってはわずか3か寺ですが、黒石市内には法眼寺と薬師寺の2か寺があります。

 法眼寺は最初、温湯村に建てられましたが、元禄4年(1691)に黒石第三代領主津軽政*(まさとら)の命により、現在の山形町に移されました。以降、黒石津軽家の祈願所として寺領が与えられました。法眼寺の本堂には、津軽第二十六番目の札所として津軽三十三観音の一つである十一面観世音が安置されています。

 最初に建てられた本堂は焼失しました。その後も度重なる地震により倒壊し、明和6年(1769)に仮本堂として再建された本堂が、近世社寺の特徴が表れた建物であることから、平成5年4月16日に県重宝に指定されています。

 平成17年3月14日、雪害により屋根が倒壊し、内陣も一部破壊されました。現在、平成17年度、18年度に本堂を復原するために、保存修理が行われ、平成18年11月25日に完成いたしました。


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県重宝 法眼寺鐘楼堂
    法眼寺の鐘楼堂は延享3年(1746)に建立されました。本堂とともに県内でも珍しい唐風造りの建物です。

 屋根は、宝形造りの茅葺きの屋根ですが、方形の露盤を置き、宝珠を飾っています。身舎(もや)は、吹放の裳階が付く木造の建物です。正面の出入り口は両開きの桟唐戸(さんからど)があり、その他の壁には明かり障子が付けられています。身舎の上部には、梵鐘が吊されています。この梵鐘は、法眼の位を持つ棟方志功から寄贈され、また、梵鐘に彫られている三尊仏の図案も棟方志功の作品です。四方の壁には花頭窓(かとうまど)が付けられており、外部には跳高欄(とびこうらん)を組んでいます。全体的に簡素な造りですが、細部の彫刻などには近世社寺の特徴が表れています。昭和53年8月24日に県重宝に指定されています。




県重宝 黒石市消防団第三分団第三消防部屯所
    大正13年(1924)に建てられた町屋に洋風デザインを取り入れた擬洋風建築の消防屯所です。現在もその機能を果たしている建物です。昭和3年にノーザン式消防自動車の配備により表側を増築したために正面デザインが変更されましたが、建築当初の様相がよく保存されています。特に切石を積んだ基礎、入母屋屋根のぺティメントの装飾や望楼の屋根に近代建築の意匠を取り込んでいることに地方における近代化の特徴が表れています。

 基本的には2階建ての建物ですが、2階部分前方に梁間1間、桁行1間の望楼を3段載せており、全体として5階建ての建物になっています。

 市内には望楼を載せた消防屯所が6箇所あり、一番古いものは、元町の第二消防部屯所ですが、第三消防部屯所は造形的にも優れ、保存状態も良好で、平成15年7月14日に県重宝に指定されています。




県無形民俗文化財 大川原の火流し
 大川原の火流しは、約650年前から伝わる大川原地区の伝統行事です。毎年、旧盆の8月16日の夜、中野川を赤々と染めながら「火の舟」を勇壮に走らせる奇習として全国的に知られています。

 火流しの舟は、アシガヤを使用して3隻作ります。それぞれの舟を中野川に流し、1隻の舟を6人の若者が引張ります。このときに帆柱に火を付け、火が消えないように舟を走らせます。これは、舟を早生、中生、晩生の稲に見立てたもので、帆柱の燃え具合で次の年の豊凶を占うものです。

 この伝統行事の由来は、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王(むねながしんのう)の子孫が北朝方に追われ、大川原に住みつき、戦死者の慰霊のために始めた精霊流しが原形だと言われています。現在では、稲作の豊凶を占い、住民の無病息災を祈る行事として行われています。

 最近の調査で大川原に住みついた落人は、信濃大河原の香坂(高坂)高宗の子孫であることが解明されています。長野県大鹿村の村史編纂室に問い合わせたところ、香坂高宗は、南北朝時代に信濃大河原一帯を領有していた豪族ですが、宗良親王が北朝に追われたときに香坂高宗を頼り、大河原城に迎えられたという記録があります。そして、亡くなるまで30年近く、大河原に居住していました。そのため、大川原に住みついたのは、高宗の子孫と高良の子孫と高良親王お付きの公家の一族である可能性があります。

 大川原の火流しは、600年以上も伝統行事として継承されてきたことに文化財としての価値が高く、多くの観光客が訪れています。昭和58年1月20日に県無形民俗文化財に指定されています。




県無形民俗文化財 黒石ねぷた
   ねぷたは「ねむりながし」の習俗が風流化したもので東北各地には、このような習俗で災厄を払い、無事息災を祈る行事が多く伝わっています。青森県内では、青森市の『人形ねぶた』、弘前市の『扇ねぷた』がよく知られていますが、『黒石ねぷた』には、人形ねぷたと扇ねぷたの両方があります。特に、黒石市の人形ねぷたには、5段からなる高覧上に人形の本体を載せ、さらに見送り絵が付いているという特色があります。また、黒石ねぷたの人形は青森の人形ねぶたに比べると小型ですが、繊細で色彩も鮮やかです。

 『黒石ねぷた』の起源は不明ですが、天明6年(1786)以前に運行していたことがわかっています。現在では、子供を中心とした3世代交流の場であり、市民総参加の祭りとして盛り上がっており、運行台数も約80台に及んでいます。平成5年4月16日に県無形民俗文化財に指定されています。




県無形民俗文化財 上十川獅子踊(かみとがわししおどり)
   旧暦4月8日に長谷沢(ながいざわ)神社で行われる獅子起こしから旧暦8月15日に上十川(かみとがわ)八幡宮で行われる獅子納めの期間、上十川地区において踊られています。

 獅子踊りは、囃子に笛奏者3、太鼓奏者2、手平鉦奏者3(うち1名は歌掛けを兼ねる)、踊り手はオガ獅子(案内者)、牡獅子(小)、牡獅子(中)、牝獅子(大)、山持ち各1名の総計13名からなります。現在行われている演目は、街道渡り、門の切り、追い込み、橋掛け、女獅子競い(相撲)、十五夜、松山、山掛けがあります。旧暦の8月15日に行われる獅子納めの十五夜の夜に「十五夜はお出やる、お月を待ちかねて、あかし立てたり芋殻松明」の詞章を歌い、篝火の周りを廻りながら踊る「十五夜」が音頭も正確に伝えられています。また、踊りを始めるにあたって神社では「不動経」が音頭取りによって唱えられます。

 創始年代は定かではないが、伝承では、「天正12年(1584)、南部の品川六郎右衛門が第十代浅瀬石城主千徳政氏に獅子一揃いを贈り、家臣に取り立てられて、千徳家のかかえ獅子として舞を完成した。千徳家が滅亡後は、村人によって伝承され、野際村を経て、明治7年4月に上十川に移された」というものです。

 移された獅子は、保存が困難となり、獅子を山中に埋めた。それから10年後、コレラと悪疫が村一般に広まり、獅子を再び掘り起こし、太鼓を叩き、獅子舞を踊ったところ、猛烈な悪疫を払い除くことができた。以来、凶事退散の舞として受け継がれています。平成11年7月23日に県無形民俗文化財に指定されています。




県天然記念物 妙経寺のカヤの木
 妙経寺のカヤの木は、樹齢約700年、樹の高さ19.5m、幹の周り6.55mあります。碁盤や将棋盤として貴重価値の高いカヤの木は、元来、宮城県を北限とし、北方では育たないといわれてきました。しかし、この地方では古くから天台密教が栄えており、各地を巡回した修験者がカヤの木の苗木を妙経寺に植えたものと考えられます。樹勢は良く、腐朽もなく順調に生育しています。本県では三戸郡南郷村の高松寺(こうしょうじ)のカヤの木が有名ですが、妙経寺のカヤの木はこれより200年以上古い樹木です。昭和63年10月25日に県天然記念物に指定されています。




県重宝 明暦二年津軽十郎左衛門拝領山形黒石領外浜平内領検地帳(明暦の検地帳)
 津軽信英が弘前藩から5千石で分知したときに領地は、黒石領2千石、平内1千石、上州勢多郡2千石でした。このうち、弘前藩では黒石領と平内領を検地していますが、それが、「明暦の検地帳」です。これには黒石領内の町内名をはじめ、作人名、耕作面積、作物名などが克明に記録されており、今でいう土地台帳であり、信英が分知した当時の歴史的事実を知ることができる貴重な資料です。また、「貞享(じょうきょう)の検地帳」より約30年前に作成されており、津軽領内最古の検地帳です。平成12年4月19日に県重宝に指定されています。



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