

2010年2月4日
東京国立博物館で開催されている「国宝 土偶展」が大変な人気らしい。この縄文ぐるぐる便りの編集担当のHさんも「ずっと見ていても飽きないものですね。さすがスーパースターたち。これまで見た土偶と比べて造形がとても美しいです」というメールをくれた。縄文好きの友人たちも口々に「感動した」と語る。いったい土偶の魅力ってなんだろう?
以前に能の舞手である梅若猶彦さんから面白い話を聞いた。
「能面というのは、顔に面をつけているという嘘がはっきりとわかるようになっているんです。顔より小さく、面と顔の境目がはっきり見える。ところが人間の脳というのは不思議なもので、この顔は面ですよ、つまり嘘ですよ、と明確にしていたほうが、よりリアルに認識してくれるんです。逆に、人間の顔に限りなく近づけて境目もあいまいにしてしまうと、かえって、その微妙な差異に違和を感じるんですね」
なるほど……と思ったものである。その時、梅若さんは即興で能面をつけた背広を着た男がレストランでスパゲティを食べる、という無言劇を演じてくれた。能面をつけた背広の会社員なんて変である。だけど、見ているうちに次第に顔の角度や仕草から、観客は面の表情を読むのである。そして、次第にその面が気にならなくなっていき、あたかも男の顔であるように認識してしまう。嘘のほうがリアルという言葉は、ずっと心に残った。
人間そっくりに精巧に仕上げた顔よりも、目と鼻と口の穴を開けただけのような土偶に、人間臭さを感じてしまう私たちの感性とはなんだろうか?
私たちの脳はほんのちょっとした角度、大きさ、縦横の比率で、そこに「感情」を読み取るものすごい機能がそなわっている。土偶を見つめるとき、その脳の驚異的な機能がフル稼働するのだろう。
逆に言えば、CGがより精巧に精密に人間そっくりを目指せば目指すほど、私たちの脳はCGの画像に、人間とは違う微細な差異を発見してなにかしら気味の悪い人造的なものを感じ取ってしまうのではないか。私はそうなのである。
しりあがり寿さんという天才漫画家がいる。私はしりあがり寿さんの漫画の大ファンなのだが、しりあがりさんの漫画の線はいたって単純、シンプルである。だがシンプルであるが、その線はゼロコンマの傾きや、大きさ、太さの違いで人間の感情を表現している……というか、してしまっている。それを読者は読むのである。表現者は無意識に描いているし、読者も無意識に読み取っているが、そこで行われているコミュニケーションは奇跡のようだ。人間の感受性とは、果てがないのかと思う。
土偶の顔はまさにその「微妙なニュアンス」を私たちに伝えている。そして、なぜ私たちが土偶の「微妙なニュアンス」に不思議な郷愁を覚えるのかと言えば、すでに私たちが失ってしまった「なにかしらの感情」を土偶が伝えているからなのである。
土偶を作った縄文時代の人たちならば、土偶の表情が伝えている感情、メッセージをはっきりと読める。しかし、私たちは縄文時代から大きく生活スタイルや価値観、さらには感情様式まで変化させている。それゆえ、土偶の顔の表情を読みきれていない。海外旅行をして、文化の違う民族の表情がわかりにくいのと同じである。でも、私たちは土偶の顔が語っている土偶の思いがなんとなくわかる。それは、昔むかし、私たちの祖先がもっていた思いであり、私たちの無意識の底にはまだその思いが宿っているから。
そう思って土偶の顔をじっと見ると、なんだかせつなくて泣きたくなってくる。この未知なる世界への畏怖と驚きと感動。日々を精いっぱい生ききる生命の躍動を思い出すのだ。
■2月10日(水)午後6時半より
東京神田神保町三省堂書店本店にて朗読会を行ないます。
詳しくはブログをご参照ください。
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