

2010年1月21日
以前に山と渓谷社の雑誌の仕事で白神山地を取材したことがあった。そのときに、ガイドをしてくれたのが秋田豊さんだった。八ツ森から少し入った留山という里山を案内してもらった。
「小さな山ですが、ここの森はとてもよい森ですよ」
そう言ってガイドしてくれた秋田さんは、ほんとうに山が好きで好きでたまらない、という感じだった。その気持ちが伝わってくるから私も歩きながらだんだん浮き浮きしてきた。白神、そして屋久島、知床。自然遺産の森はすべて歩いた。よく歩いた。屋久島にも知床にも親しい現地のガイドさんがいて、彼らといっしょに地味だけど落ち着いた山をたくさん歩いた。地味だけど落ち着いた山とはどういう山かと言えば、お手入れが行き届いて、人と山が仲良くしている山のことである。
私が屋久島に初めて行ったのは、いまから一五年も前のことだ。屋久島には樹齢七〇〇〇年の縄文杉という「神のごとき」ヤクスギがあると雑誌で知り、それをひと目見たいと思ったのだ。そんなすごい巨木があるとうことは、その場所は人の手の入っていない、つまり人間の手垢のついていない、自然のまんまの原生林であろう!そう私は思い込んでいたのである。
でも、実際に屋久島に行って、屋久島のネイチャーガイドの人たちと親しくなり自分がいかに浅薄な思い込みだけで自然を考えていたかを思い知る。
その当時、私は「人間は自然環境の敵だ」と感じていた。人間が環境を破壊して地球を悪くしている。人間なんて地球のガン細胞みたいなものじゃないか、そう思っていた。間違った正義感を持ったエセ・エコロジストだったのである。
実際に屋久島に行き、白神山地に行ってみると、自然遺産に指定されるほどの山には「山を育てる」人たちがいる。そこは人間の手の入った森であった。豊かな生態系を維持するために根気強く、ていねいに山を育てている人たちの存在はあまり知られていない。人が手入れをしている山はほんとうに気持ちがいいのである。ただ然のままに放ったらかしにされている山は、暗くて気味が悪い。かつて日本には山と供に暮す人間がたくさんいて、山を守り山を育ててきた。何世代にもわたって、豊かな森を育てるために地道な努力を続ける秋田豊さんのような人間がいたのである。
「この木はクルマミズキと言いまして、ほら車軸みたいに葉が円形についているでしょう。とても水分の多い木なんです。だから、この木で炭は作れないんですよ。焼いても焼いても切り口から水が出てくるんです。木材としても使えません。何年も水を含んでいて腐りやすいんです。昔は山の神様の木といわれていて、きこり達が切るのと嫌いました」
山に生きる人たちは、直感的にどんな木が山の生態系を支え、川や里を潤し、海を肥やすかを知っていた。そして切らずに守ってきたのだ。
縄文時代に生きていた私たちの祖先も、それを知っていた。だから縄文人は六千年近くも完全に自然のなかで自然と調和し、自然の生態系を崩すことなく自然の恵みだけで命を繋いできたのである。農耕が始まってからも、山が貯水した水は稲を育て人の命を守ってきた。そのサイクルが壊れたのは、自然の手入れをするという発想から、自然を支配し、自然を人間の都合に合わせて変えようと発想するようになってからだ。本来、人間の仕事は自然のケアだったのである。ケアというものの本質は、老人介護や障害者介護の現場を見ればよくわかる。
ケアとは、相手の立場にたって発想することであり、そしてまた、助け助けられるという相互的な関係の上にのみ成り立つものなのである。
取材の途中で、秋田さんが「ここにはヤマユリが群生していてそりゃあ美しかったのです。二千株もあってでしょうか。でも、散歩道ができてから、あっという間になくなってしまったんです」
と語った。
「つまり、ここを通る人が、抜いていくということですか?」
秋田さんは私の問いには答えずに、ただ「人間の手の平とは、おそろしいものです」と言ったのだ。
「人間のこの2枚の手の平が、爆弾もつくる、ロケットもつくる。でも、この手の平が赤子を育て、森も守るのです。なんでもできる。この2枚の手の平でねえ……」
そう言って、しみじみと自分の手のひらを見つめた秋田さんのことを、いまでもふと思い出す。そして私も己の手のひらを見る。私は、この2枚の手のひらを人間としてどう使うのか。それを考えるのが生きるということではないか……と。縄文の人たちも、きっと自分の手のひらを見たと思う。この手の可能性を思い、未来を思い、きっと見たと思う。
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