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  大町桂月(おおまちけいげつ)が交流の縁結び

「大町桂月」先生  十和田湖のすばらしさに感動し、全国に紹介した人がいます。その人は、四国 高知県土佐町の近くの高知市で生まれた、明治の文人「大町桂月」先生です。
 桂月が初めて、十和田湖を訪れたのは明治41年8月下旬です。三戸郡五戸町出身の鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)氏が「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい」と誘ったことにはじまります。初めて十和田湖を見た桂月は、十和田湖の雄大さや、自然の美しさに感動し、雑誌『太陽』に紀行文を発表して当時まだ世に知られていなかった十和田の魅力を紹介しました。『山は富士 湖水は十和田 ひろい世界にひとつずつ』『住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半』の歌や『・・・十和田湖は天下無双なり。「山は富士 湖は十和田」といいたるついでに「渓流は奥入瀬」・・・』などと紹介し、十和田の名声は、全国に知られるようになりました。そして、桂月は、なかでも蔦(つた)の仙境をこよなく愛し、10度ほど来県していますが、そのうち蔦温泉には2度の冬ごもりをして、戯画と歌の「蔦温泉帖(つたおんせんちょう)」「冬籠帖(ふゆごもりちょう)」などを残しています。大正14年4月には、蔦温泉に本籍を移し、5月に堅雪の八幡岳登山を果たしましたが、6月10日に青葉もえる蔦で56歳の生涯をとじました。蔦にある桂月の墓の前には、辞世の句『極楽へ越(こ)ゆる峠の一休(ひとやす)み 蔦の出湯(いでゆ)に身をば清めて』が刻まれています。
 十和田湖は昭和11年2月1日に国立公園に指定されましたが、桂月はこの指定にも尽力され、大正12年に起草した「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」の請願文は、政府関係方面に大きな反響をよび指定の気運を大いに高めました。そして、亡くなる一ヶ月前には、桂月の公的絶筆とされる「十和田国立公園期成会趣旨書」を執筆しています。
 武田千代三郎県知事、小笠原耕一村長とともに十和田開発の三功労者の一人に数えられ、彼らの功績をたたえるために、昭和28年10月、国立公園指定15周年を記念して顕彰碑「乙女の像」が十和田湖畔の休屋に建てられました。
 桂月のペンネームについて     本名芳衛、月の名所として名高い郷里、四国高知の桂浜の月を想い桂月と号しています。
「冬籠帖」「蔦温泉帖」   蔦温泉帖より
蔦温泉帖より
大町桂月と桂月夫人
大正13年蔦温泉で 大町桂月と桂月夫人(左から4・5人目)
 
大町芳章氏監修



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