青森県の縄文遺跡群縄文文化とは
1.縄文時代のはじまり 2.土器の弓矢の登場 3.ムラの出現 4.縄文人の姿 5.世界史の中の縄文文化 6.日本史の中の縄文文化 年表
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はじめに
世界遺産について
縄文文化とは
「青森県の縄文遺跡群」を世界文化遺産に!
青森県内の国指定史跡の縄文遺跡
三内丸山遺跡
小牧野遺跡
是川遺跡
長七谷地貝塚
亀ヶ岡遺跡
田小屋野貝塚
二ッ森貝塚
青森県内の主な縄文遺跡
大森勝山遺跡
石神遺跡
太師森遺跡
大平山元T遺跡
エリア別の主な縄文遺跡
トピックス
リンク
1 縄文時代の始まり
 氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代は終わりを告げ、約一万三千年前に縄文時代が始まりました。この時代の文化を縄文文化と呼びます。
 急速に温暖化が進み、ドングリ類やクリ・クルミが実る豊かな落葉広葉樹の森が広がり、海面の上昇や降雨によって運ばれた土砂の堆積によって、魚介類が豊富に生育できる地形や環境が形成されました。
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2 土器と弓矢の登場
 土をこねて思いどおりに形を作り、火熱による化学変化によって、より安定した容器を手に入れました。土器の登場です。それによって、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となり、自然の恵みをより広く利用できるようになるなど、食生活に大きな安定をもたらしたと考えられます。
 また、遠くから安全に獲物をしとめることができる弓矢が使われ、魚介を獲るための釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。
 縄文時代は、主に、食料を狩猟採集によって得ていたものと考えられています。
土器と弓矢の登場 土器と弓矢の登場 土器と弓矢の登場
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3 ムラの出現
 移動の生活から定住生活へと大きく変化し、生活の拠点であるムラが出現しました。ムラの中には住居や墓が作られ、やがて地域を代表するような拠点的なムラも現れました。そこには太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設、大規模な記念物である環状列石(ストーン・サークル)も登場しました。
 丸木舟を操り、遠方との交流や交易も行われ、ヒスイやアスファルト、黒曜石が運ばれました。まつりに使われる土偶もたくさん作られ、装身具類も発達し、豊かな精神世界を持っていたことがわかります。
ムラの出現
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4 縄文人の姿
 縄文人の平均身長は、男性約157センチメートル、女性は約10センチメートル程小柄で、筋肉質の体をしていたようです。顔は彫りが深く、二重瞼で唇が厚いなどの特徴があったと考えられています。
 また、縄文人には虫歯が見られることから、デンプン質の食料を大量に取り始めたことが考えられています。鞭虫の寄生虫卵も大量に出土しており、どうも腹痛に悩まされていたようです。
 足首の関節が変形している場合があり、しゃがむ、蹲踞の姿勢が多かったことが推測されています。
縄文顔 弥生顔
【縄文顔】 【弥生顔】
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5 世界史の中の縄文文化
 縄文時代の始まりを示す最古の土器が青森県から出土していることなどから、現在では東アジアの極東地域で土器が最も早く発生したものと考えられています。
 長江下流域では、日本の縄文時代早期にあたる約八千年前には稲作が始まり、少し遅れて中国東北部でもアワやキビなどの雑穀栽培が始まりました。
 ちょうど三内丸山遺跡が栄えた縄文時代中期の頃、世界では、黄河流域には黄河(中国)文明、インダス川流域にはインダス文明、ナイル川にはエジプト文明、ティグリス・ユーフラテス川流域にはメソポタミア文明が生まれ、華開いていました。
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6 日本史の中の縄文文化
 縄文時代は、日本列島で本格的な稲作が始まる約二千百年前の弥生時代の開始まで、約一万年間続きました。
 縄文文化は、非常に長い期間続きましたが、それは停滞でも未発達でもなく、優れた技術や豊かな精神世界を持ち、成熟した社会であったと考えられます。狩猟採集文化が極限まで発達したものと言えるでしょう。
 また、縄文人は、現代人の直接の祖先と考えられますから、縄文文化の延長上に現代の生活が成り立っていると言っても過言ではありません。現代生活の中には、その起源が縄文時代まで遡って考えることができるものもあり、縄文文化は、日本の基層文化であると考えられています。

縄文時代と世界史の比較年表
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